主張 その2 ― 21世紀の日本人像 ―

【新しい国民中心の考え方】
日本国民はいま、21世紀に入り、不安な気持ちでいっぱいです。国内では少子・高齢化が進み、海外では冷戦終結後の政治情勢の激変や、グローバルなメガコンペティション時代に突入しているのに、それに対応する態勢が日本に整っていないからです。経済、政治、行政などのシステムは、時代の変化について行けず、機能不全に陥っているように見えます。
このような事態に直面し、日本の安全保障の危機を訴える「国家主義」的主張や、個人レベルで国や行政に抵抗しようと言う「市民主義」的主張も聞かれます。しかしこの2つの主張は共に偏っていると思います。
言うまでもなく、国はまず、個人と国家の安全を保障しなければなりません。前者は日本国民の生活を守る「安全ネット」であり、ナショナル・ミニマムを保障する年金、医療、介護などの社会保障、司法・警察制度、環境維持などです。後者は日本国家の存立を守る「安全ネット」、すなわち国際的な安全保障(防衛)です。「市民主義」的な主張は前者のみを、「国家主義」的主張は後者のみを強調する。
この2つの「安全ネット」は、日本人の生活の安定の基盤です。
しかし、豊かな生活はそのような安定した生活の上に、更に幅広い選択の自由が平等に保障され、それを生かして創造的、個性的に生きることによって初めて実現するのだと思います。そのような選択の機会が豊富に用意されるような規制緩和と行動の自由が、個人に認められなければなりません。その経済的表現が、規制緩和による民間市場経済の活性化、民間支出主導型の成長であり、効率的で小さな政府です。
国家についても、日本の安全保障の上に立って、更に地球環境の維持、途上国の開発援助、国際社会の平和と安全、などに貢献し、諸外国から尊敬されるような国家像を目指すべきです。
以上のような日本の在り方を、「国家主義」や「市民主義」と対比して「新しい国民中心の考え方」あるいは「新保守主義」と呼びたいのです。

【自立し思いやりのある日本人】
「新しい国民中心の考え方」あるいは「新保守主義」の下で生活する日本人は、「お上」に依存しようとせず、自分のことは自分で処理する「自立した日本人」でで泣ければなりません。
機会均等の選択のチャンスは、規制緩和、地方分権で拡大しているので、努力した人が報われる自己責任の社会です。失敗した人には何回でも再挑戦するチャンスがあるし、身障者や高齢者には「安全ネット」が張り巡らされている。国民は安心して、自由に自分の行き方を追求できるのです。
しかし、自由な生き方とは、他人を無視した生き方ではありません。他の人も、自分と同じように自立し、自由に生きていることを十分に自覚し、他の人の自立や自由を妨げない思いやりが必要です。人が人として生きて行く原点は、家族や社会との絆であり、この絆なしには人は生きられません。家族や社会の構成員は他の人であり、他の人との絆なしには人は生きられないのです。そこに思いやりの道徳的原点があります。
自立した自由な日本国民は、自己責任と同時に、他の人に対する思いやりを忘れない日本人です。戦後教育の重大な欠陥は、「自由」を教え、「自由」が当然伴っている「責任」と「思いやり」を教えなかったことにあります。

【政治改革の最重要課題】
「新しい国民中心の考え方」を実現し、21世紀の日本の繁栄と安全の基盤を確立できるかどうかは、結局のところ、選挙における国民の選択に懸っています。従って「国家主義」や「市民主義」と対決する「新しい国民中心の考え方」の争点が、選挙で明白にならなければなりません。
その為には、政党を中心に「政策」で対決する小選挙区制度と拘束名簿式比例選挙制度を並立する現行の衆議院選挙制度を、当分の間は堅持すべきです。党の「政策」ではなく、利益誘導型の「個人」の対決となる中選挙区制度や非拘束名簿式比例選挙制度(事実上「大選挙区制度」)に変えてはなりませn。
その上で、国会の論戦をもつと政策対決型に変えなければなりません。国会論争の通年テレビ放映化、「政府・与党」対「野党」対決型の討論形式の導入、などの早急な実施が望まれます。
99年1月の自・自連立政権の発足に伴なう合意で、政府委員(官僚)制度の廃止と、副大臣・政務官(与党議員)制度の導入が決まり、99年の第145回通常国会に国会法改正法案が提出され、成立したのは、大きな前進です。
このような明治以来の国会改革によって、国民が「政策」中心の「政治」に始めて興味を強めることが出来るのです。現状は、マスコミによる「政局」中心の「政界」報道ばかりで、真面目な与・野党の「政策」対決の「政治」が国民に十分報道されていません。