大石泰彦先生を偲ぶ
―東京大学経友会『経友』(No.189 20146月号)
     
 大石泰彦先生は、私に経済学の初歩と経済学を学ぶ姿勢を教えて下さり、大学卒業後も温かいご配慮で最後までご指導下さった恩師である。私のエコノミストとしての生涯は、大石先生の存在抜きには考えられない。生者必滅の理とは言え、先生のご逝去は真に悲しい。ここに生前の先生から賜った数々のご指導を振り返り、追悼の言葉とさせて頂きたい。
 私事から話を始めることをお許し頂きたい。私は新制高校2年の時、肺浸潤を煩い、1年間休学した。昭和23年のことである。当時はまだ結核の特効薬はなく、なるべく栄養をとって静かにしていることが、療養の基本であった。私の父は諸橋轍次著『大漢和辞典』を出版した(株)大修館書店の創業者で、実家は神田錦町に在った。療養中に退屈した私は、日課のように神保町の本屋街を散歩していたが、ある日ふと目にとまった徳永直・渡辺順三著『唯物辯証法読本』という小さな本を買って読んだ。「正反合」や「否定の否定」などの辯証法の論理と、下部構造が上部構造を規定する唯物史観に非常な興味をおぼえ、今度は永田広志著『唯物辯証法講話』『唯物史観講話』という大きな本を買ってきて読んでみた。そこから更にエンゲルスの『反デューリング論』やマルクスの『経済学批判』などの原典に読み進み、休学を終えて教育大附属高校(新制)の2年に復学した時は、生かじりのマルクスボーイになっていた。
 戦時中、東京高師(戦後は教育大)附属中学(旧制)では、1学年から15名を選抜して「特別科学教育組」を編成し、勤労動員を免除して金沢の第四高等学校(旧制)に疎開させ、数学と理科に重点を置いた特別科学教育を行った。昭和22年3月に解散するまでこのクラスに居た私は、当然理科方面に進む積りでいたが、休学中に社会科学への関心が強まった結果、経済学を学びたいと考えるようになり、昭和26年に東京大学の文科1類に入学した。
 教養学部では、反戦学生同盟に入り、メーデーに参加したりしていたが、次第に二つの疑問を抱くようになった。
 授業では玉野井先生の経済学を受講し、自分でも社研の連中とマルクスの『資本論』やレーニンの『ロシヤにおける資本主義の発達』などを輪読してマルクス経済学を勉強したが、『日本経済新聞』の記事さえ理解できない。唯物史観に基づくマルクス経済学は、過去の経済の発展を整理する歴史の理論としては優れているが、現代の経済現象を分析する理論としては適していないのではないと、子供心にも思い始めたのである。
 もう一つは、昭和27年の「血のメーデー事件」などもあって、マルキシズムの共産党は人間の生活を良くするどころか、人間を革命の道具としか考えていないのではないか、という大きな疑念を抱いたことである。
 私は、一念発起して近代経済学を学ぼうと決意し、わだつみ会などもやめて勉強に集中し始めた。2年の秋である。
 本郷の経済学部に進むと、経済原論、経済政策、経済史、経済学史、財政学から統計学、工業経済論に至るまで、マルクス経済学の花盛りである。近代経済学は、館龍一郎先生の金融論しかなく、あとは特別講義で、大石泰彦先生がクラインの『計量経済学』、館龍一郎先生がヒックスの『景気循環論』、留学から帰った古谷弘先生がヒックスの『価値と資本』を夫々下敷きにした講義を行っていた。ただし、3人の先生の特殊講義がどの本を下敷きにしていたかは、もっと勉強してから分かったことで、経済学部に進学したばかりの私は、要するに講義は殆んどマル経ばかりだという印象で失望した。
 そこで近代経済学を学ぶにはゼミナールが大切だと分かったが、昭和28年春には古谷先生は留学中で、近経の理論をゼミで教えて下さる先生は、大石先生と館先生しかいらっしゃらない。ゼミのテーマを見ると、大石先生はクラインの『ケインズ革命』と書いてあったが、館先生のテーマには「厚生」という字があったが、ケインズとは書いてなかった。無知な私は、ケインズ経済学を学ばなければという程度の知識しかなかったので、迷わず大石先生の門を叩いた。
 研究室にお訪ねすると、何故私のゼミに入りたいのかという当然のご質問があった。私は正直に、唯物史観に興味を持っていたが、マル経では日本経済新聞も理解出来ないので、改めて近経を勉強したいのだと申し上げた。その上で、よせばよいのに、館先生のゼミは「厚生」と書いてあったが、このような抽象的で計測不能な概念で経済を分析するのはいかがと思うので、大石先生のゼミを希望していると言ったのだ。これはマル経の近経批判の常套句で、マル経しか勉強していない私は、おろかにもこれが口をついて出てしまった。
 大石先生は怒った顔をして、「私は厚生経済学の専門家である」とおっしゃった。無知をさらけ出した私は小さくなって退散し、これで入門は駄目になったと嘆いていた。しかし、不思議なことに私はゼミへの参加を許された。
 太っ腹な大石先生は、無知な学生が頓珍漢で失礼な事を言っても、これから教えてやれば良いと思われたのであろうか。ケインズ体系を構成する消費・貯蓄関数は、「厚生」極大化の仮定に立っているというごく初歩的な知識は、ゼミに参加して間もなく知り、本当に恥ずかしかった。
 毎週開かれるゼミでは、大石先生は学生のレベルまで降りてきて、一緒に議論し、考えるという態度で、決して上から目線で一方的に教えることはなかった。そして議論に関連した他の経済学者の論文や、著書の個所を必ず教えて下さった。緩い形のリーディング・アサインメントである。私はつまらない講義には出席しないで、図書館でそれらの文献を読んだ。クラインの『ケインズ革命』を読み終える頃には、ケインズの『一般理論』や『貨幣論』はもとより、ロバートソン、ヒックス、ハロッドなどの著書も読みかじっていた。
 4年生の始め頃であったか、私にとっては生涯忘れることの出来ない事がゼミで起こった。クープマンスの『リニア―・プログラミング』をテキストに使っていたのであるが、ある定理の数学的証明が文中にあり、もう一つの定理も同じような手法で証明できると書いてあった。大石先生は誰か証明してみないかとおっしゃったので、私が黒板に出ていって解いたところ、「君、そんな簡単な事ではないよ」とお叱りを受けて、その日は終わった。ところが、次の週のゼミの冒頭で、大石先生は「先週の数学的証明は鈴木君の解が正しい」とおっしゃり、何事も無かったように先に進まれた。
 私は先生の潔さに驚いた。そして一生懸命勉強すれば、東大教授に議論で勝つことも出来るのだという、今思えばとんでもない自信ができ、ますます勉強に身が入った。
 考えてみると、大石門下生に優れた学者が輩出したのは、このような大石先生の教え方によるところが大きいのではないかと思う。私の同期生には故坂下昇(東北大、筑波大教授)、唯是康彦(農学総合研究所)、1年下には根岸隆(東大名誉教授)、岡野行秀(同)、少し下には浜田宏一(エール大名誉教授)などの諸先生が居る。学生と一緒に議論し、時には負けてみせる。しかし関連論文のアサインメントは確り行って学生の勉強意欲を掻き立てる。これが教育者としての大石先生の姿であった。
 私は卒業間際に、もう一つ、大石先生に大変なご迷惑をかけ、救って頂いた。
 大石先生に経済学に対する眼を開いて頂いたお陰で、私は日本銀行への就職が内定していた。ところが、教養学部時代に反戦学生同盟などに関係していたため、私が共産党の秘密党員であるという投書が、日本銀行に届いた。これを調べるため、日本銀行は人事課長を大石先生のご自宅に差し向けた。先生は玄関先で、「私が推薦した学生を疑うということは、私を信用しないということだ。無礼である」と言って玄関払いを喰わせた。結局、公安調査庁の調べで私が共産党へ入党したことは一度もなく、2年の後期からは一生懸命勉強した真面目な学生だったということになり、首はつながった。
 大石先生が人事課長に玄関払いを喰わせたことは、日銀に入ってから知ったのであるが、教養学部時代の私のことなど何もご存じない筈の大石先生が、ご自分の信用に懸けて私を護って下さったことを知り、本当に有難く、ご迷惑をおかけしたことを心からお詫びしなければならないと思った。しかし、大石先生は一言もこの事を私におっしゃらなかったので、私は日本銀行に入って大分たつまで知らなかった。大石先生のお人柄と人間の大きさには、唯々頭が下がる思いである。
 私は日本銀行へ入って5年余り、計理局や札幌支店に勤務し、大石先生に教えて頂いた経済学を活かす機会が殆んど無かったが、昭和35年から42年までの7年間、本店の調査局内国調査課に勤務した。折しも高度成長期で日本は人手不足となり、賃金格差が縮小して消費者物価が毎年高騰するようになった。私は物価担当として日本銀行の内部や『調査月報』に論文を書き、また日経センター、逗子コンファレンス、六甲コンファレンス、理論計量経済学界などで大学の先生方と議論する機会が増えた。とくに、ミルトン・フリードマンに触発されて著した『日本の通貨と物価』(昭和39年、東洋経済新報社)を出してからは、一層そうした機会が増えた。
 また浜田宏一氏がエール大学でPh.Dをとり、昭和40年に日本に持ち帰ったジェイムス・トービンの「マニスクリプト」を読むことが出来た。その中の銀行行動理論を参考に日本の銀行部門の2セクター・モデルを作り、計測して『金融政策の効果――銀行行動の理論と計測』(昭和41年、東洋経済新報社)を著したところ、光栄にも日本経済図書文化賞を頂いた。
 私はこの二つの著書や主な論文を、必ず大石先生にお送りしていたが、ある時大石先生からお呼びが掛かった。何事かと伺ったところ、「君は今後も金融論の分野で大いに仕事をしなさい。ついては、今後私ではなく、館龍一郎先生を師としてご指導を仰ぎなさい。館先生には私からお願いしてある」とおっしゃるではないか。東大経済学部の近代経済学の先頭に立つ大石先生と館先生の間に、教育者として、このような話し合いが行われることがあるのかと驚き、私はただただ感激した。大石先生の学恩の深さをしみじみと感じ、私は幸せ者だと思った。
 早速、館先生を上大崎のご自宅にお訪ねしたところ、大石先生から聞いているからいつでも来いというお話を頂いた。この時から、私は学界に発表する論文を必ず事前に館先生にお送りし、コメントを頂き、議論して修正してから発表するようになった。
 昭和42年11月から45年5月まで、私は日本銀行のロンドン事務所に勤務し、2年半ほど日本を空けたが、帰るとすぐ、大石先生と館先生から東大の非常勤講師として特殊講義をせよという有難いお話を頂いた。昭和47年10月から48年3月までの半年、「日本の金融政策」というテーマで『金融政策の効果』の中身を中心に話をした。この時受講してくれた百人程の学生の中には、昭和49年3月に卒業し、今日、大学教授や民間エコノミストとして大活躍している多くの人が居る。嬉しい限りである。
 この時の講義録を元に、私は『現代日本金融論』(昭和49年、東洋経済新報社)を上梓し、毎日新聞のエコノミスト賞を頂いたが、この頃大石先生から東大に学位を請求せよという有難いお話があった。新制大学になってから、いわゆる「論文博士」は無くなったと思っていたが、ごく例外的に、大学院卒業の学力を持っていると認定した場合は、学位論文だけで経済学博士を授けることがあるということであった。私は後込みしたが、大石先生に励まされ、『現代日本金融論』を学位論文として提出した。館先生を委員長とし、大石先生のほか、貝塚啓明、浜田宏一などの諸先生も加わった委員会から口頭試問を受けた。私は何をしゃべったか覚えていない程上がってしまったが、無事、昭和51年3月に学位を授与された。これも、大石先生のお計らいがあってのことであることは、言うまでもない。
 大石先生は、もう少し後の事になるが、郵貯問題で積極的にご発言された時期がある。多くの学者や日本銀行は、国家の信用をバックにした郵便局が、民間銀行の預金よりも長期で、金利が高く、解約も出来る定額郵便貯金を提供するのは競争上不公平であり、郵貯、ひいては公的金融仲介が肥大化するので、改めるべきだ、という議論であった。これに対して大石先生は、郵便局は国民(貯蓄・消費の主体)にとって銀行よりもアクセスし易く、便利な定額貯金は国民の立場から見てよい金融商品だ、というご主張であったかと思う。
 私は上司から大石先生を説得せよという嫌な仕事を仰せ付けられ、一夜、大石先生を夕食にお誘いしたことがある。競争上不公平で公的金融が民間金融を圧迫し、市場経済の資源配分を歪めるという私の議論に対し、大石先生は貯蓄主体にとって便利な制度は良い制度だという意味のことをおっしゃった。しかし先生は、最後に「君は自分が正しいと思うことを主張しなさい。私に遠慮するな」とおっしゃり、気持ち良く夕食を召し上がって下さった。またしても私は、温かく弟子を育てて下さる恩師に頭が上がらなかった。
 大石先生はお年を召され、体が効かなくなってからも、日銀大石会や30・31年合同大石会に出席して下さった。そして一人一人に語りかけ、話題を絶やさなかった。その気の配り方には、あとでお疲れが出ないかと、私共の方が心配になった程である。
 太っ腹で、しかも温かい気配りで、卒業後のゼミ生の人生まで考えて下さった偉大な教育者であり、経済学者であった大石先生が今はいらっしゃらないと思うと、本当に寂しい。
 先生、永い間お疲れさまでした。どうか天国で、安らかにお過ごし下さい。