政治権力に支配された司法とメディアの偽装

―辻井喬、田中森一、植草一秀の新著は共通の問題を訴えている―(H19.9.18)

【多くの人に読んで欲しい辻井喬、田中森一、植草一秀の新著】
 最近、面白い本を3冊読んだ。それぞれテーマは違うし、著者のキャラクターも全く異なるのだが、3冊とも政治権力に支配される司法とメディア、それが作り出す「世論」という怪物、真相の隠ぺい、その結果生じる日本社会の不条理を問題にしているのだ。
 1冊は、作家辻井喬の『新祖国論』、2冊目はヤメ検辯護士田中森一の『反転』、3冊目はエコノミスト植草一秀の『知られざる真実』である。田中森一と植草一秀は、いずれも刑事事犯に問われて裁判中で、それぞれの本を勾留されている時に構想し、あるいは執筆している。
 全く異なるキャリアを持つ3人が、同じ問題を憂い、あるいは告発している事に非常な興味を覚えたので、そのポイントを紹介したい。
 関心のある方は、是非、読んでみて頂きたい。

【メディアに支配された言論の空疎化、政治の堕落】
 辻井喬は、『新祖国論』の中で、次のように訴える。
 改革という言葉が、そのまま内容であるかの如く流通している言論の空疎化。その言論を支配しているのは、「世論」という怪物だ。この「世論」は、センセーショナリズムとセンチメンタリズムを身上にするメディアによって形成されている。
 自分達が努力した結果、国は富み、自分達が苦しむ社会が実現してしまった不条理。改革とは、既得権益を持った人の手から役得や有利性を取り除くことであって、弱者救済と同じ方向性の筈なのに。
 政治は、大衆の中に鬱積している不満を、いつ、どんな方向へ噴出させ、その中で自分の存在を際立たせるかというデマゴーグに満ちている。議会制民主主義は、手続きと数の民主主義に堕している。
 グローバリズムと見えていたものは、実は特定の一国のナショナリズムを偽装したものではないか。
 ナショナリズムが正しいか、正しくないかを判定する鍵は、@情報が常に人々の前に公開されているか、A人々の権利を増大させる方向へ機能しているか、の2点である。情報を隠し、あるいは偽装して、人々の権利を抑える方向に動くナショナリズムは、危険である。今のアメリカは、どうなのか。日本には、正しいナショナリズムが興ろうとしているであろうか。
 今回の教育基本法改正で脱落した文言の中に、「個人の価値をたっとび」「勤労と責任を重視し」「自立的精神に充ちた」の三つがある。全部、民主主義を支える基本的条件なのに。この国は、どこへ向かおうとしているのか。

【身の毛もよだつ検察の「国策捜査」】
 辣腕特捜検事から辯護士に転じて、闇社会の守護神と呼ばれた田中森一は、著書『反転』の中で、日本社会の不条理と理不尽が、政治権力と結び付いた司法によって作られ、あるいは隠されていることを、赤裸々に告白している。ここ迄ひどいのかと、読んでいて身の毛もよだつ。
 彼は特捜検事の頃、上からの命令で、何回も捜査を中止させられ、その経験から、次のような結論に達する。
 検察は法務省の一機関であって、日本の行政機関の一翼をになっている。検察は行政機関として、「国策」のことを考えなければならない。その時の国の体制を護持し、安定させることを専一に考える。最近、「国策捜査」という検察批判がよくされるが、そもそも基本的に検察の捜査方針は、全て「国策」によるものである。
 被疑者に「人権」がある、などと本気で考えている検事はいない。
 現実の裁判官は必ずしも正しくなく、それどころか間違っているケースの方が多い。
 遂に馬鹿らしくなったのか、田中森一検事は辯護士に転じ、検察と裁判を知り尽くした辯護士として、闇社会を護り、大儲けをする。しかし、最後に許永中事件に連座し、獄中の人となる。

【植草一秀を社会的に潰そうとした勢力が居るのではないか】
 辻井喬が今の日本の民主主義の堕落、権力に支配されたメディアが作る危険な潮流を正面から告発しているとすれば、田中森一は権力と結び付いた司法が作り出す、日本社会の不条理と理不尽を、裏から告発しているのだといえよう。
 このような日本の社会の中で、もみくちゃにされたのが、エコノミスト植草一秀である。普通なら起訴されない、あるいは冤罪かも知れない痴漢事件で一審有罪となり、社会的地位を失った。
 辻井喬と同じように日本の政治、社会を憂えて、主としてエコノミストの立場から政府・自民党を批判し続けた植草一秀が、田中森一の告白にあるような「国策捜査」の検察の手で葬られたのではないかという疑いを、田中と植草の本を読んだ人なら、誰でも抱くのではないだろうか。

【経済政策の「見逃された偽装」を正当に告発】
 植草一秀の著書は、その第1章「偽装」で、政治権力による司法とメディアの支配が作る「見逃された偽装」を詳細に述べている。
 96年にバブル崩壊不況から脱出した日本経済が、97年度緊縮予算によって「平成恐慌」(菊池英博の表現)に陥った際の「NHKスペシャル」や「クローズアップ現代」による偽装。
 「金融再生プログラム」の失敗で03年春に再び金融恐慌前夜の様相を呈した時の、りそな銀行救済劇の不公平と理不尽、それを偽装する政府とメディア。
 これを契機とする株価急反発と一連の不良債権処理の中で、いかに外国資本に利益供与が行われたか。郵貯民営化も、同じような米国隷属政策によるものだが、政府とメディアの偽装で国民はそれを知らない。

【政権交替の無い万年与党の存在が社会を腐敗させた】
 以上の3冊が共通に述べている日本社会の不条理と理不尽は、何故生まれたのであろうか。司法とメディアが政治権力に支配されるのは、当然なのであろうか。他の先進国は、ここ迄ひどくはない。司法は行政から独立している。メディアは、どの政治勢力と同じ考えを持っているかを明らかにした上で、論陣を張っている。不偏不党で公正だという建前で、実は時の政治権力を護るようなことはない。
 何故違うのか。政権交替が行われる議会制民主主義が根付いているかどうかの違いだ。政権交替が行われる議会制民主主義の下では、司法とメディアが一つの政治勢力に支配されることはない。
 日本では、細川・羽田政権時代の短期間を例外として、半世紀以上にわたって自民党が与党を続け、政府を作ってきた。この万年与党の存在、政権交替の不在こそが、日本の社会をここまで腐敗させるような司法とメディアを作り出した根本の原因だと思う。