産業文明史からみた現代日本経済の停滞(H16.2.2)


─「脱」産業化が日本経済混迷の出口─

【日本経済の二極分化は歴史的転換が進まない結果】
   日本経済は、輸出関連企業の業績回復と、内需関連企業の業績低迷に二極分化した状態が続いている。就業人口で言えば、前者は僅かに1割、後者は実に9割である。このため経済を全体としてみれば、成長率は2%程度にとどまり、勢いのない回復である。
   前者が高い割合を占める株式市場の市況は最悪期を脱したが、後者が大半を占める地方経済、非製造業、中小企業は不況のままだ。9割を占める産業が不況であるから、失業率は5%前後の高水準を続け、国内の持続的な物価下落(デフレ)は収まらない。
   この二極分化の状態を大きな産業文明史の流れからみると、経済・社会が歴史的転換期にあるにも拘らず、転換に対する日本の適応が進んでいないために起っていると言える。

【「脱」産業化社会の担い手となる分野が停滞している】
   1割を占める日本の輸出型製造業の生産性は、米国のそれを2割も上回り、技術的に世界の最先端を進んでいる。これは、日本の「産業化」の成果である。
   しかし、産業化の基盤の上にいま始まろうとしている21世紀の「産業化後(post-industrialization)の社会」、いわゆる「脱」産業化社会の担い手は、国内向けの産業が中心である。この分野(多くは非製造業)の生産性は、米国のそれの6割程度に過ぎない。この分野の停滞こそが、日本経済の10年間の停滞を招いている。
   農業中心の経済・社会から製造業中心の経済・社会に変る近代化の歴史は、故村上泰亮東大教授に習って、大きく三つの時期に分けて考えると理解し易い。
   第1は、18世紀の産業革命から1870年代頃迄の19世紀型産業化システムの時代。
   第2は、1880年代頃から1970年代までの20世紀型産業化システムの時代。
   そして第3が、いま我々が足を踏み入れた21世紀型「脱」産業化システムの時代、である。

【19世紀型産業化のスタートを切った明治維新】
   第1の時期は、第1次産業革命の時代とも呼ばれる。石炭を焚いて蒸気を出し、その蒸気エネルギー(蒸気機関)で鉄製の機械を動かす産業文明である。まず綿織物工業が興り、織機を作る機械工業、原燃料を供給する製鉄業、石炭業が栄える。
   そして国内には蒸気機関車によって牽引する鉄道網が広がり、海洋では鉄の蒸気船が走る海運業が発達する。1850年代から70年代は、この19世紀型産業化の大繁栄期であった。
   日本が江戸時代末期に遭遇した「西洋文明」は、将にこの大繁栄期の西欧産業化社会である。覚醒した維新の志士達の働きによって、日本は植民地化を免れ、明治維新以降の産業化がスタートする。
   政府の指導の下、綿織物工業、鉄鋼業、石炭業、造船業、海運業など第1次産業革命の花形産業が発達し始め、鉄道網が国内に広がっていく。「文明開化」である。そして欧米列強に対抗して、帝国主義、植民地主義の道を歩み始める。いわゆる「富国強兵」だ。

【自動車など加工組立産業を主役とする20世紀型システム】
   丁度この頃、西欧先進諸国は、19世紀型システムから20世紀型システムに向う第2次産業革命に入る。エネルギー源は水蒸気から次第に電気に代り、原燃料は石炭から石油や天然ガスに移り始めた。
   19世紀システムで最先端をきり、中核的役割を果した工業は綿織物であったが、20世紀システムでそれに担うのは自動車工業である。自動車は、ガソリン、電気、鋼鉄、ガラス、ゴム、プラスティックなど20世紀産業化の担い手となる諸産業の合成製品であったからだ。1913年の米国におけるT型フォード組立ラインの完成は、流れ作業の20世紀型組立産業を象徴する出来事であり、経済的覇権がヨーロッパからアメリカに移ったことを物語る出来事であった。
   自動車を典型とする組立型加工産業は、更に電気冷蔵庫、洗濯機、ラジオ、テレビ、音響機器一般などの耐久消費財工業に広がり、20世紀型産業化社会の主役となって行く。また輸送業では、鉄道に対抗して、道路を走る自動車輸送と空を飛ぶ航空輸送が比重を高める。鉄道業自身も蒸気機関車から電車に代る。

【20世紀型システムの大繁栄期に高度成長を遂げた日本】
   日本は、この20世紀型産業化システムへの転換では当初遅れをとった。もっと正確に言えば、明治維新以降19世紀型産業化システムを取入れるのに精一杯で、何とか20世紀の前半に、19世紀型の重厚長大型産業を作り上げたのである。20世紀型の加工組立産業に充分手を回す余裕はなかった。自動車も航空機も、軍事用を別とすれば、第2次大戦前の日本社会では一部の特権階級のものでしかなかった。それが太平洋戦争における日米間の技術力の差となって現れた。とくに米国が先に実用化した電波探知機は、日本の戦況を決定的に不利にした。
   20世紀型システムの中で日本が輝いたのは、第2次大戦後である。1944年のブレトンウッズ協定に基づくIMF体制の確立から1973年の第1次石油危機までの30年間は、20世紀型産業化の大繁栄期であったが、この時期に日本は敗戦の痛手から不死鳥のように立上がり、1955年から1973年迄の年率平均10%の高度成長を実現するのである。
   そして、19世紀型産業化のレベルでは勿論のこと、20世紀型産業化のレベルにおいても、遂に欧米先進国の産業化の水準に追い付いた。欧米諸国以外では、日本が初めて産業化の水準で先進国の仲間入りを果した。

【大量生産・大量消費から多品種少量生産の21世紀型システムへ】
   1973年の第1次石油危機は、この20世紀型産業化システムの終りを告げる出来事であった。大量生産、大量消費、大量廃棄の20世紀型システムに警鐘を鳴らすローマクラブの報告書『成長の限界』が出たのもこの頃である。
   日本の高度成長もこの時を境に終了し、1990年迄の16年間は年率平均4%程度の中成長に変る。そして1991年以降今日迄、年率平均1%程度の長期停滞に陥るのである。
   21世紀型産業化システムがどのようなものか、まだよく分からない。確かなことは、第1次・第2次産業化の成果の上に立った豊かな産業化後の社会、いわゆる「脱」産業化社会であるということだ。そこでは所得水準が高いために人々の生き方や欲求が多様化し、20世紀型の画一的な大量生産、大量消費ではなく、多品種少量生産・少量サービスの技術が求められている。それに応える技術がマイクロ・エレクトロニックスであろう。

【21世紀型システムの発展分野はIT技術で多様な生き方に応える産業か】
   しかし、その結果どのような産業が21世紀型システムの中核的担い手になるのかは、まだよく分からない。取敢えず20世紀型を突破して出てきた新しい産業は、パソコンや携帯電話をつなぐインターネット通信であり、DVDレコーダー、薄型テレビ、デジタルカメラなどのいわゆるデジタル家電である。
   恐らくこれらの商品やそれを使って提供される多品種少量型のサービス産業が今後一層発達し、21世紀型の需要を満たして行くのであろう。21世紀型の新しい需要は、多分物の消費ではないであろう。第1次・第2次産業化によって、物は充分豊かに供給されている。
   新しいニーズは、多様な生き方の中にあるのではないか。育児、教育、就労、居住、娯楽、環境、健康、介護、資産運用など、およそ人生のあらゆる側面が多様化して行くのであろう。それに応えていく分野こそが、21世紀型システムの中核的担い手ではないであろうか。

【システムの転換期には必ず経済的、社会的、国際的混乱が起っている】
   19世紀型、20世紀型、21世紀型と産業のパラダイムが変り、社会システムや国際的覇権が移っていくプロセスでは、共通して二つのことが起きるようだ。
   第1は、新しい産業化の衝撃で社会が混乱し、経済が停滞し、国際的な争いや秩序の乱れが生じることである。
   農業を基礎とする社会の中において、19世紀型の産業化が進み始めた18世紀末から19世紀前半のイギリス社会では、長期間の混乱が続いた。それをマルクスは、資本家が労働者を搾取する資本主義の矛盾としてとらえた。ヨーロッパの国際的覇権は、ナポレオン戦争を最後にフランスからイギリスに移るが、それ迄には長い大戦乱の時代があった。
   同じように、19世紀型産業化社会の中から20世紀型産業化社会が生れる過程では、二つの世界大戦と両大戦間の世界大恐慌が起こっている。19世紀型システムの中では、産業的、政治的、軍事的に突出して覇権を握っていたイギリスに対して、ドイツが2度にわたってチャレンジするが失敗する。覇権は結局第2次産業革命の先端を走るアメリカに移ることになる。

【初期の混乱のあとに訪れる大繁栄期】
   このように、産業化システムの転換期には必ず混乱が起きているが、その後には必ず大繁栄期が訪れている。既に述べたように、19世紀型産業化システムの大繁栄期は1850年代から70年代であり、20世紀型産業化システムの大繁栄期は1944年から1973年である。これが第2の共通した出来事である。
   日本は、19世紀型産業化システムの大繁栄期に覚醒して明治維新を成し遂げ、20世紀型産業化システムの大繁栄期に高度成長を実現して、遂に産業化のレベルで先進国の仲間入りを果した。
   そして今、21世紀産業化システムの混乱期の真っ只中にある。

【いまは21世紀型システムの大混乱期】
   混乱は1973年2〜3月の変動為替相場制への移行に伴なうブレトンウッズ体制の崩壊と、その年の秋の第1次石油ショックの発生によって幕が切って落とされた。この時以降、日米欧の先進国の経済成長率は一斉に低下する。
   画一的な大量生産、大量消費に適していた社会主義計画経済は、多品種少量生産の21世紀型産業化システムに適応出来ず、1980年代から市場経済化の道を歩み始める。その政治的帰結として、80年代末にベルリンの壁は崩壊し、ソ連邦の解体や東欧諸国の解放で旧社会主義国経済が世界的市場経済の中に組み込まれて行く。いわゆる経済のグローバル化だ。
   米ソ冷戦時代が終ると、それ迄二つの陣営の中で息をひそめていた民族的、宗教的、文化的対立が一斉に火を吹き始めた。「文明の衝突」と言うにはあまりにも血なまぐさい争いが、バルカン半島、中近東、西アジアなどで起こり、テロの脅威は世界を覆っている。

【10年間の日本経済の停滞は混乱期の現象の一つ】
   10年間の日本経済の停滞と社会の荒廃は、このような世界史の流れの中に位置付けて考えなければならない。日本におけるバブルの発生と崩壊は、米国の経済的覇権が傾いたことによるドル暴落を防ぐルーブル合意(1987年2月)の下で起こったことだ。また世界的なデフレ圧力は、中国、東欧、ソ連の安い労働力が、世界市場に流入するグローバル化の中で起っている。21世紀型システムへの転換に伴なうこれらの世界史的出来事が、日本経済停滞の外生的な要因である。
   しかし、日本経済の内部にも、21世紀型システムへの転換が進まないことによる経済停滞の原因がある。いま日本経済の回復を引張っているのは、輸出型製造業である。この産業は日本の「脱」産業化社会の経済的基盤として極めて大切であるが、一時代前の20世紀型産業化システムの中核である。この部門が引張って、21世紀型の「脱」産業化システムが発展するとは考えられない。
   「脱」産業化時代の新しいニーズは、いま停滞している国内需要向け産業(その多くは非製造業)に対する需要である。そこに経済政策を集中しなければ、新しい時代は開けない。

【21世紀型システムの発展分野に残る多くの規制】
   既に述べたように、21世紀型システムの発展分野は、マイクロ・エレクトロニックスの技術を活かし、人々の多様な生き方のニーズに応える産業ではないだろうか。それはいまの言葉で言えば、育児支援サービス、多様な教育サービス、多様な就労形態とそれに対応し得る社会保障、好みによって選択できる様々の居住環境、便利で信頼できる医療サービスと介護サービス、自由に選択できる多様な娯楽サービス、選択の幅が広い総合的な資産運用サービスなどと言うことになる。しかし実際は、いまの私達の想像を超える形で発展してくるのではないか。
   しかし、これらの分野は、いま規制でがんじがらめになっている。厚生労働省や文部科学省によって認可された医療法人、福祉法人、学校法人しか参入出来ないとか、託児所は厚生労働省の所管、幼稚園は文部科学省の所管で両者の兼営は難しいとか、職業紹介は厚生労働省の所管で民間が勝手に多様な就労斡旋をしてはならないなど、実に多くの参入規制がある。
   これらの規制を全部取払って、民間企業がどの分野にも自由に参入し、創意工夫をこらした多様なサービスを提供して競争するように仕向けるべきである。

【官主導、中央支配の「剛」構造から民自立、地方主権の「柔」構造へ】
   官が民を指導し、中央が地方を支配する日本型システムは、19世紀型産業化システムを日本に導入して民間や地方に伝え、20世紀型産業化システムの中で高度成長を促進するにはよく適した仕組みであった。
   しかし、豊かな「脱」産業化社会で人々のニーズに応え、新しいサービスを発達させるためには、官僚の指導や中央の計画は邪魔になるばかりである。市場に接触しない中央政府の官僚に、新しい21世紀型システムのニーズがどこにあるか、分かる筈はないからだ。
   新しい日本の仕組みは、そのようなニーズに対して民間企業やNPO、NGOが競って応えられるような「柔」構造にしなければならない。「剛」構造の骨組である規制は出来る限り廃止すべきである。
   21世紀の発展分野が規制のために停滞し、日本経済全体の足を引張っている現状を改めることが、今緊急に求められている歴史的要請である。